1980年の読売ジャイアンツ
1980年の読売ジャイアンツ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ3位 | |
61勝60敗9分 勝率.504[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
球場 | 後楽園球場 |
球団組織 | |
オーナー | 正力亨 |
経営母体 | 読売新聞社 |
監督 | 長嶋茂雄 |
« 1979 1981 » | |
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1980年の読売ジャイアンツでは、1980年の読売ジャイアンツの動向をまとめる。
この年の読売ジャイアンツは、長嶋茂雄監督の6年目のシーズンである。
概要
年明け早々金銭トレードでロッテに放出された張本勲が「巨人は間違った方向に進んでいる」と発言、さらにヘッドコーチに就任したばかりの青田昇が週刊誌上での発言が元で辞任に追い込まれるなど波乱続きのまま開幕を迎えたチームは、いきなり開幕3連敗と躓き、その後も借金生活から抜け出せない日々が続くと7月以降は大洋・阪神とのAクラス争いに終始。投手陣は2年目の江川卓が最多勝のタイトルを獲得、定岡正二と西本聖も防御率2点台をマークするなど、チーム防御率はリーグ唯一の2点台と健闘したが、一方で打撃陣は張本の穴埋めとして現役大リーガーのロイ・ホワイトが加入し期待通りの活躍をするものの、前年18年ぶりに無冠に終わり、この年5月に40歳となった王貞治が規定打席到達者中打率リーグ最下位と低迷、10月12日に19年連続となる30号本塁打を放つもこれが現役最後の本塁打となりチーム打率もリーグで唯一2割5分を割り込み、また接戦をモノにできず1点差で負ける試合が目立つなど投打の明暗がくっきり表れた1年となった。10月19日と20日に、日本シリーズへ向けて調整モードの広島相手に連勝し、辛うじてAクラスの3位を確保したが、1リーグ時代の1944年から48年の4シーズン連続[2]以来、2リーグ体制発足後としては初めて3年連続で優勝を逃した責任を取らされ、翌日長嶋監督は解任されて後任にOBの藤田元司が就任し[3]、2週間後の11月4日には王も「体力の限界と自分の打撃ができなくなった」として現役引退を表明、11月23日のファン感謝デーにて高田繁と共に引退セレモニーを行った。藤田新監督のもと、引退した王は翌年から助監督に就任してチームを支えることになる。8月4日の広島戦から連続試合得点が始まり、翌1981年9月まで続いた。王とともに引退した高田は翌年からNHKの野球解説者に就任した。
チーム成績
レギュラーシーズン
1 | 中 | 柴田勲 |
---|---|---|
2 | 左 | 高田繁 |
3 | 三 | 中畑清 |
4 | 一 | 王貞治 |
5 | 右 | ホワイト |
6 | 二 | シピン |
7 | 遊 | 河埜和正 |
8 | 捕 | 山倉和博 |
9 | 投 | 江川卓 |
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 広島 | -- | 広島 | -- | 広島 | -- | 広島 | -- | 広島 | -- | 広島 | -- | 広島 | -- |
2位 | ヤクルト | ヤクルト | 2.5 | ヤクルト | 5.0 | ヤクルト | 10.0 | ヤクルト | 8.5 | ヤクルト | 5.5 | ヤクルト | 6.5 | |
3位 | 巨人 | 2.5 | 阪神 | 3.0 | 大洋 | 5.5 | 阪神 | 13.0 | 巨人 | 16.0 | 大洋 | 18.5 | 巨人 | 14.0 |
4位 | 大洋 | 3.0 | 大洋 | 3.5 | 阪神 | 8.5 | 大洋 | 14.0 | 阪神 | 17.5 | 巨人 | 19.0 | 大洋 | 16.0 |
5位 | 阪神 | 5.0 | 巨人 | 6.5 | 巨人 | 巨人 | 16.0 | 大洋 | 18.0 | 阪神 | 19.5 | 阪神 | 20.5 | |
6位 | 中日 | 7.5 | 中日 | 11.5 | 中日 | 17.5 | 中日 | 22.0 | 中日 | 30.0 | 中日 | 30.5 | 中日 | 30.0 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 広島東洋カープ | 73 | 44 | 13 | .624 | 優勝 |
2位 | ヤクルトスワローズ | 68 | 52 | 10 | .567 | 6.5 |
3位 | 読売ジャイアンツ | 61 | 60 | 9 | .504 | 14.0 |
4位 | 横浜大洋ホエールズ | 59 | 62 | 9 | .488 | 16.0 |
5位 | 阪神タイガース | 54 | 66 | 10 | .450 | 20.5 |
6位 | 中日ドラゴンズ | 45 | 76 | 9 | .372 | 30.0 |
オールスターゲーム1980
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できごと
- 1月10日 - ヘッドコーチの青田昇が『サンデー毎日』のインタビューでの舌禍問題で謹慎3か月の処分[4](1月18日に退団[5])。
- 10月21日 - 長嶋茂雄の監督辞任と、藤田元司の新監督就任が発表される[6]。
- 10月22日 - コーチ・与那嶺要が辞任を表明した。
- 11月4日 - 王貞治が現役引退を発表[7]。
- 11月11日 - 藤田巨人が正式に発足。コーチングスタッフが発表される。
- 11月17日 - 高田繁が現役引退を申し出て了承される[8]。
選手・スタッフ
読売ジャイアンツ 1980 | |
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監督 |
|
一軍コーチ | |
二軍監督・コーチ | |
投手 | |
捕手 | |
内野手 | |
外野手 |
[9][10]
表彰選手
リーグ・リーダー
| ベストナイン
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ドラフト
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
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1位 | 原辰徳[11] | 内野手 | 東海大学 | 入団 |
2位 | 駒田徳広 | 投手 | 桜井商業高 | 入団 |
3位 | 小原正行 | 内野手 | 臼杵商業高 | 入団 |
4位 | 瀬戸山満年 | 内野手 | 中京高 | 拒否・プリンスホテル入社 |
脚注
注釈
出典
- ^ “年度別成績 1980年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2016年11月29日閲覧。
- ^ 1945年は休止
- ^ “「厳しさ」と「温かさ」原監督に通ず/藤田元司氏”. 日刊スポーツ (2019年5月29日). 2021年10月19日閲覧。
- ^ 毎日新聞1980年1月11日17面「巨人『江川体質』変わらず 青田コーチ制裁 甘えと独断繰り返す」毎日新聞縮刷版1980年1月p317
- ^ 毎日新聞1980年1月19日15面「巨人 ついに屈服 青田問題 甘い判断、もう通ぜず 他球団、ウワサ波及に硬化」毎日新聞縮刷版1980年1月p555
- ^ 読売新聞1980年10月22日1面「長島監督が辞任 巨人、後任は藤田氏内定」読売新聞縮刷版1980年10月p841
- ^ 読売新聞1980年11月5日1面「王選手現役を引退 868号残し 巨人・助監督に」読売新聞縮刷版1980年11月p135
- ^ 読売新聞1980年11月18日・17日「名手・高田去る V9の戦士 やはり体力、解説者に」読売新聞縮刷版1980年11月p655
- ^ “読売巨人軍公式HP 背番号変遷”. 読売ジャイアンツ. 2016年11月29日閲覧。
- ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。
- ^ “原辰徳・3度目の監督就任!これまでに残した8つの伝説”. NHKスポーツ (2019年1月31日). 2021年1月10日閲覧。
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セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | ||||||
優勝 | 広島東洋カープ | 2位 | ヤクルトスワローズ | 優勝 | 近鉄バファローズ | 2位 | ロッテオリオンズ |
3位 | 読売ジャイアンツ | 4位 | 横浜大洋ホエールズ | 3位 | 日本ハムファイターズ | 4位 | 西武ライオンズ |
5位 | 阪神タイガース | 6位 | 中日ドラゴンズ | 5位 | 阪急ブレーブス | 6位 | 南海ホークス |
:日本一 :後期優勝・日本シリーズ出場 :前期優勝(パ・リーグ) | |||||||
各年の読売ジャイアンツ | |
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2010年代 | |
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1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |
この項目は、野球に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球/P野球)。 |
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