高淯
高 淯(こう いく、536年 - 551年)は、中国の北斉の皇族。襄城景王。高歓の八男[1][2][3]。母は婁昭君[4][5][6]。字は修延[7]。
経歴
東魏の通直散騎常侍・平西将軍の位を受けた[7]。元象年間、章武郡公に封ぜられた。驃騎大将軍・開府儀同三司に転じた[7]。天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高淯は襄城郡王に封ぜられた[8][9][10]。天保2年(551年)3月2日、晋陽で死去した。享年は16[7]。乾明元年(560年)2月、仮黄鉞・太師・太尉・録尚書事の位を追贈された[1][11][3]。4月16日、鄴城の西北28里の地に葬られた[7]。諡は景烈といった[7]。
子がなく、常山王高演(のちの孝昭帝)の次男の高亮が後を嗣いだ[1][11][3]。