畠山義福

 
凡例
畠山 義福
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延3年(1750年
死没 享和2年4月3日(1802年5月4日
戒名 興仁院圓山宗義
官位 織部
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 高家畠山氏
父母 畠山国祐、堀川広益
畠山義紀
兄弟 政如、義福国儔
土屋篤直養女
義一、義宣
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畠山 義福(はたけやま よしとも[1][2])は、江戸時代中期から後期にかけての高家旗本織部[1][2]

略歴

高家旗本・畠山国祐の次男[1]。生母は堀川広益の娘[1]。実兄に政如、実弟に国儔がいる。

一族の高家旗本・畠山義紀(旧能登守護家)の養子となる[1]

明和4年(1767年)2月15日、10代将軍・徳川家治に初めて御目見する[1]。同6年(1769年)4月5日、20歳のとき、家督を相続する[1]采地は3,122石余[2][1]

享和2年(1802年)4月3日死去、享年53。興仁院圓山宗義[3]

生涯、表高家として過ごし、高家職に就くことはなかった。

家族

妻は土屋篤直の養女[1]。長男は義一[1]、次男は義宣(義一の養子)。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 堀田等 1964, p. 256.
  2. ^ a b c 小川 1989, p. 20.
  3. ^ 東京帝国大学史料編纂所 1938, p. 1585.

参考文献