惟宗直本
凡例 惟宗直本 | |
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時代 | 平安時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 正六位上・主計頭 |
主君 | 陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇 →醍醐天皇 |
氏族 | 秦公→惟宗朝臣 |
父母 | 秦文成 |
兄弟 | 直宗、直本 |
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惟宗 直本(これむね の なおもと)は、平安時代前期の官人・明法家。氏姓は秦公のち惟宗朝臣。惟宗直宗の弟[1]。
経歴
陽成朝の元慶元年(877年)兄・惟宗直宗とともに讃岐国香川郡から左京六条に移貫する(当時の官位は正七位上・弾正少忠)。元慶7年(883年)直宗を始めとして直本自身を含む同族19人が、それまでの秦公姓から惟宗朝臣姓を賜与され改姓した(この時の官位は正六位上・右衛門少志)。
光孝朝の仁和2年(886年)右衛門少尉から大尉に昇格する。寛平4-5年(892年-893年)頃に検非違使別当・藤原時平からの諮問を受けて、検非違使兼右衛門大尉として『検非違使私記』2巻を撰述[2]。醍醐朝にて勘解由次官・主計頭を歴任し、明法博士も兼帯している。
人物
明法道の権威として、自邸で律令を講ずべき旨の宣旨を受けた。これは、かつて文徳天皇から律令の宗師と称えられた讃岐永直が、その晩年に自邸で律令を講じた先例を襲ったものとされる[3]。
著作に『令集解』50巻と『律集解』30巻があり、『二中歴』には十大法律家の一人としてあげられている。
官歴
注記のないものは『日本三代実録』による。
- 時期不詳:正七位上。弾正少忠
- 元慶元年(877年) 12月25日:讃岐国香川郡から左京六条に移貫
- 時期不詳:正六位上。右衛門少志
- 元慶7年(883年) 12月25日:秦公から惟宗朝臣に改姓
- 時期不詳:右衛門少尉
- 仁和2年(886年) 2月:右衛門大尉[4]
- 延喜2年(902年) 8月12日:見勘解由次官[5]
- 延喜4年(904年) 3月9日:見主計頭[6]
- 延喜7年(907年) 6月10日:見兼明法博士[7]
脚注
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参考文献
- 伊能秀明「明法博士惟宗直本の明法勘文に関する一考察」『明治大学大学院紀要 法学篇 22』明治大学大学院、1985年
- 坂本太郎、平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年
- 『世界大百科事典 第2版』平凡社、2005年
- 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 下巻』戎光祥出版、2009年
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』(古代氏族研究会、1986年)
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