復株累若鞮単于

復株累若鞮単于呉音:ぶくしゅるいにゃくたいぜんう、漢音:ふくしゅるいじゃくていせんう、拼音:Fùzhūlèiruòdīchányú、? - 紀元前20年)は、中国前漢時代の匈奴単于呼韓邪単于と第2閼氏(大閼氏)との子。復株累若鞮[1]単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は雕陶莫皋(ちょうとうばくこう)という。

生涯

呼韓邪単于と第2閼氏(大閼氏)との間に生まれる。

建始2年(前31年)、呼韓邪単于は臨終の際、第1閼氏(顓渠閼氏)の子である且莫車を立てようと考えていたが、顓渠閼氏が「且莫車はまだ若く、民衆が附かないので、国を危ぶむ恐れがある」と言い、妹である大閼氏の子の雕陶莫皋を立てようと提案した。しかし、大閼氏は「若くとも大臣と協力していけば大丈夫であり、それよりも第一夫人の子を廃し、第二夫人の子を立てる方が後々不安です」と反論し、意見が分かれた。その後、呼韓邪単于が死去すると、顓渠閼氏の意見が採用され、雕陶莫皋が立って復株累若鞮単于となった。これ以降、単于位は弟に継がせることを規則とした。

復株累若鞮単于は子である右致盧児王の醯諧屠奴侯を漢に入侍させ、次弟の且麋胥左賢王とし、三弟の且莫車を左谷蠡王とし、四弟の嚢知牙斯右賢王とした。また、復株累若鞮単于はレビラト婚によって王昭君を娶り、須卜居次と当于居次の2女を生んだ。

河平元年(前28年)1月、復株累若鞮単于は右皋林王の伊邪莫演らを漢に遣わして奉献させた。

河平2年(前27年)、復株累若鞮単于は上書して河平4年(前25年)1月に入朝すると請願し、河平4年(前25年)1月に入朝した。漢は錦繍繒帛2万匹、絮2万斤を賜った。

復株累若鞮単于は即位10年の鴻嘉元年(前20年)に死去した。規則により弟の左賢王且麋胥が立ち、捜諧若鞮単于となる。

妻子

  • 閼氏(えんし:妻)
    • 右致盧児王(醯諧屠奴侯)
    • 須卜居次(云)…王昭君の娘、須卜当に嫁ぐ
    • 当于居次…王昭君の娘

脚注

  1. ^ “若鞮”とは匈奴の言葉で“”という意味である。当時、漢の歴代皇帝が帝号に“孝”をつけていたため、匈奴は復株累若鞮単于以降、それを真似るようになった。<『漢書』匈奴伝下、『後漢書』南匈奴列伝>

参考資料

  • 漢書』(匈奴伝下)
再統一匈奴の初代単于(前31年 - 前20年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / 右谷蠡王単于前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / 呴犁湖単于前102 / 且鞮侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍鞮単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍朐鞮単于前60-前58

分裂時代
東匈奴

呼韓邪単于前58-前31

西匈奴

郅支単于前56-前36

対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代

復株累若鞮単于前31-前20 / 捜諧若鞮単于前20-前12 / 車牙若鞮単于前12-前8 / 烏珠留若鞮単于前8-13 / 烏累若鞮単于13-18 / 呼都而尸道皋若鞮単于18-46 / 烏達鞮侯単于46

王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21

北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / 於除鞬単于91-93

南匈奴
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