吉田鉄郎
吉田鉄郎 | |
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生誕 | 日本 富山県東礪波郡福野町 |
死没 | 日本 東京都杉並区 |
国籍 | 日本 |
職業 | 建築家 |
受賞 | 日本建築学会賞(1953年) |
建築物 | 旧馬場氏牛込邸 東京中央郵便局旧局舎 大阪中央郵便局旧局舎 |
著作 | 『日本の建築』 |
吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 1956年9月8日)は、日本の建築家。庭園研究家としても知られる。逓信建築の先駆者のひとり、多くのモダニズム建築を設計した。著書の『日本の住宅』(1935年)は、日本の伝統建築について西洋の言葉で書かれた出版物の中で最も影響力のあった一冊と言われる[1]。
来歴
富山県東礪波郡福野町に郵便局長を務める五島寛平の三男として生まれる。中学卒業後は美術学校への進学を志望したが、兄の反対に遭い断念。旧制四高を経て、1919年東京帝国大学建築学科を卒業。逓信省経理局営繕課に入った。同年吉田芳枝と結婚。以後吉田姓となる。逓信省には同時期に山田守らの俊英が在籍していた。 山田とともに逓信省建築の全盛を築きあげ、その建築は日本近代建築の普及に大きな影響を与えた。
初期はドイツ表現主義やエストベリなど北欧建築の影響を受け、後にモダニズム建築の傑作を生み出した。ブルーノ・タウトが来日した際は桂離宮など各地を案内した。タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を、モダニズムの傑作と讃えた。
大正10年から臨時電信電話建設局技師をつとめ、大正13年逓信省技師となる。 昭和六年から翌年までドイツで学ぶ。晩年に独文や英文による日本建築や日本庭園に関する著作は外国人研究者に広ぐ読まれることになる。
第二次世界大戦中は、逓信省を辞して一時故郷に戻ったが、終戦後に上京。1946年、日本大学教授に就任した。
1947年、宮内省内匠寮の後進である宮内府主殿寮工務課嘱託。大宮御所御座所を設計担当。
1949年、病気のため、辞任。脳腫瘍に侵され寝たきり状態の中、『Der japanische Garten』『スウェーデンの建築家』などを口述で著した。1953年、著書「日本の建築」で日本建築学会賞を受賞。これらの吉田の著作はドイツで出版され、日本の建築を欧米諸国に伝える一助となった。[2]
ドアノブに触れないほど神経質であり、常に消毒液を持ち歩いていたという。
主な仕事
建造物名 | 年 | 所在地 | 状態 | 指定 | 備考 |
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/旧福野郵便局の離れ | 1923年 | 16富山県南砺市 | |||
/旧山田郵便局電話分室 | 1923年 | 24三重県伊勢市 | |||
/旧京都中央電話局上京分局 | 1924年 | 26京都市上京区 | 現 フレスコ河原町丸太町店 | ||
/旧京都中央電話局 | 1926年 | 26京都市中京区 | 閉鎖 | 現 新風館 | |
/検見川無線送信所 | 1926年 | 12千葉市花見川区 | |||
/別府市公会堂 | 1928年 | 44大分県別府市 | 別府市指定文化財 | ||
/旧別府郵便局電話事務室 | 1928年 | 44大分県別府市 | 登録有形文化財 | 現 別府市児童館 | |
/旧馬場氏牛込邸 | 1928年 | 13東京都新宿区 | 重要文化財 | 現 最高裁判所長官公邸 | |
/東京中央郵便局旧局舎 | 1933年 | 13東京都千代田区 | 一部保存 | ||
/八戸郵便局電話事務室 | 1934年 | 02青森県八戸市 | 現存せず | ||
/仙台逓信診療所 | 1935年 | 04宮城県仙台市 | 一部保存 | ||
/ 旧京都中央電話局下分局 | 1935年 | 26京都府下京区 | |||
/旧馬場氏烏山別邸 | 1937年 | 13東京都世田谷区 | 現 第一生命グラウンド光風亭 | ||
/大阪中央郵便局旧局舎 | 1939年 | 27大阪市北区 | 現存せず | ||
/旧馬場氏熱海別邸 | 1940年 | 22静岡県熱海市 | 現存せず | 富山市に移築予定 | |
/北陸銀行新潟支店 | 1950年 | 15新潟県新潟市 | 現存せず |
著作
- 『Das Japanische Wohnhaus』(1935年)日本の住宅
- 『Japanesche Architektur』(1952年) 日本の建築
- 『Der japanische Garten』(1957年) 日本の庭園
- 『スウェーデンの建築家』(1957年): 20世紀建築の傑作ストックホルム市庁舎(ラグナル・エストベリ設計)を中心に述べたもの
脚注
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、吉田鉄郎に関するカテゴリがあります。