ルブヌィ
ルブヌィ Лубни | |||||
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上段:キリスト教会(聖母誕生教会)、創立千年記念碑 中段:商店地域 下段:学校(загальноосвітня школа №10)、ルブヌィ駅 | |||||
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座標 : 北緯50度01分07秒 東経32度59分13秒 / 北緯50.01861度 東経32.98694度 / 50.01861; 32.98694 | |||||
歴史 | |||||
初出 | 988年 | ||||
市 | 1783年 | ||||
行政 | |||||
国 | ウクライナ | ||||
行政区画 | ポルタヴァ州 | ||||
市 | ルブヌィ | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 45.6 km2 | ||||
標高 | 158 m | ||||
人口 | |||||
人口 | (2013年現在) | ||||
市域 | 47636人 | ||||
人口密度 | 1050人/km2 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) | ||||
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) | ||||
郵便番号 | 37500-37536 | ||||
市外局番 | +380 5361 | ||||
ナンバープレート | BI, НI / 17 | ||||
位置図 ルブヌィ (ウクライナ) | |||||
公式ウェブサイト : lubnyrada |
ルブヌィ(ウクライナ語: Лубни)はウクライナ・ポルタヴァ州の市である。
ルブヌィ地区の行政中心地であるが、ルブヌィ自体は行政上は地区に含まれず、単独でルブヌィ評議会(Лубенська міська рада)を形成する[1][注 1]。人口は2013年の時点で47636人[2]。ポルタヴァ州の中で、ポルタヴァ、クレメンチューク、ホリーシュニ・プラウニ(英語版)に次ぐ4位の人口規模である。
歴史
ルブヌィは、ウクライナ最古級の市として知られる。沿スーラ川防衛線を構成する都市のひとつとして、キリスト教の受容を記念し、キエフ大公ウラジーミル1世によって988年に創建されたと言い伝えられてきた。ただし、文書として残っている最古の記録は1107年のものである[3]。当初はスラー川を見下ろす場所にある、木の塀で囲まれた小さな要塞都市だったが、急速に成長していった。
1107年8月12日、ルブヌィ近郊で起きたスラー川の戦い(ウクライナ語版)で、キエフ大公スヴャトポルク2世およびウラジーミル2世モノマフの軍が、ボニャークとシャルカンの率いるポロヴェツ族の軍を撃破した[4]。
1239年、モンゴル軍の征服によって、ルブヌィの街は徹底的に破壊された。しかし、住民たちは周囲の森林や湿地帯へと逃げて、その豊かな自然のおかげで生き延びた後に街を再建した。
15世紀から16世紀ごろはヴィシュネヴェーツィクィイ家が支配していた。マクデブルク法で統治され、紋章もこのころ制定された。
1596年には、ポーランドに反乱を起こしたセヴェルィーン・ナルィヴァーイコによる最後の戦いの舞台となった(ソロニツキーの戦い(ウクライナ語版))[5]。17世紀までには、地域内で最大級の街となった。
フメリニツキーの乱が起きた1648年から1658年まではヘーチマン国家のミルゴロド連隊が、1658年から1781年まではルブヌィ連隊が領有し、その行政中心地となった[3]。
1782年、ロシア帝国キエフ総督府(英語版)の管轄下で、ウエズドの一つとなる[3]。管轄は1793年に小ロシア県、1802年にポルタヴァ県に移る[6]。
1901年に鉄道が通ると、ルブヌィの工業は大きく発展した。地元の新聞紙が1917年7月に発刊した[7][8]。
1918年初頭にはソビエト連邦による支配が確立する[3]。その後、ドイツおよびオーストリアの軍が占領するが、第一次世界大戦の終結により撤兵した[3]。
第二次世界大戦においてドイツ軍に占領された後も、ルブヌィはパルチザンの活動拠点となった[3]。強制収容所は二つ存在していた[9]。1941年10月16日、ドイツのアインザッツグルッペンによって、ルブヌィのユダヤ人1000名以上が殺害された[10]。1943年9月18日にソ連赤軍が街を奪回する[3]。
現代
今日のルブヌィは工業が発達した都市であり、この地域における文化的中心地である。
工業が成長した1901年から1930年代に建てられた、自動車や農機具の製造工場の多くが、現在も操業を続けている。また、ルブヌィでは食肉製品、乳製品、家具、およびパンの生産が活発である。『ハルモニヤ』ブランドの乳製品工場があるほか、ルブヌィのパンはウクライナ中で知られている。
街一番のランドマークはムハールスクィー修道院(英語版)で、17世紀に建てられたウクライナ・バロック様式の聖堂がある。
地理
ルヴヌィはスラー川右岸に位置し、上流1kmの位置にはムハル村(ru)、下流0.5kmの位置にはテルヌィ村(ru)がある。また対岸にはザスリッヤ村(ru)がある[注 2]。市内を自動車道1713、Т-1714、Т-1718が走り、鉄道としてはルブヌィ駅(ru)がある。
気候
ルブヌィは温帯に属する。
ルブヌィの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 9.7 (49.5) | 15.5 (59.9) | 21.7 (71.1) | 28.7 (83.7) | 33.3 (91.9) | 35.1 (95.2) | 36.2 (97.2) | 37.6 (99.7) | 33 (91) | 29.1 (84.4) | 18.6 (65.5) | 12.3 (54.1) | 37.6 (99.7) |
平均最高気温 °C (°F) | −3 (27) | −2 (28) | 3.3 (37.9) | 13.3 (55.9) | 20.7 (69.3) | 24 (75) | 25.9 (78.6) | 25.1 (77.2) | 19.7 (67.5) | 11.8 (53.2) | 4.1 (39.4) | −0.9 (30.4) | 12 (54) |
日平均気温 °C (°F) | −5.9 (21.4) | −5.2 (22.6) | −0.4 (31.3) | 8.4 (47.1) | 15.1 (59.2) | 18.6 (65.5) | 20.4 (68.7) | 19.2 (66.6) | 13.9 (57) | 7.3 (45.1) | 1.4 (34.5) | −3.4 (25.9) | 7.6 (45.7) |
平均最低気温 °C (°F) | −8.7 (16.3) | −8 (18) | −3.4 (25.9) | 4.2 (39.6) | 9.8 (49.6) | 13.3 (55.9) | 15.2 (59.4) | 14.1 (57.4) | 9.2 (48.6) | 3.6 (38.5) | −1 (30) | −5.8 (21.6) | 3.6 (38.5) |
最低気温記録 °C (°F) | −32.1 (−25.8) | −29.3 (−20.7) | −27 (−17) | −9.5 (14.9) | −2.4 (27.7) | 2.8 (37) | 4.6 (40.3) | 2.7 (36.9) | −4 (25) | −8.5 (16.7) | −20.5 (−4.9) | −27 (−17) | −32.1 (−25.8) |
降水量 mm (inch) | 45 (1.77) | 41 (1.61) | 41.5 (1.634) | 42.2 (1.661) | 46 (1.81) | 73.4 (2.89) | 64.1 (2.524) | 57.2 (2.252) | 48.6 (1.913) | 43.9 (1.728) | 48.2 (1.898) | 49.6 (1.953) | 600.5 (23.642) |
平均降水日数 (≥0.2 mm) | 19.3 | 16.6 | 15.6 | 8.8 | 9.4 | 9.2 | 7.7 | 5.8 | 9 | 10.4 | 15.5 | 18.8 | 146.1 |
出典:[11] |
行政
ルブヌィは『地方特別市(ウクライナ語: Місто обласного значення)』に指定されていて、ルブヌィ・ラヨンではなく、ポルタヴァ州が直轄している。
市内は8つの地区に分けられている。それぞれの地区は、市の委員会によって任命された長官が責任者として行政を担う。
ルブヌィ出身の著名人
- リュドミラ・ルデンコ(英語版) - 世界女子チェス選手権チャンピオン
- ナターリャ・メクリン(英語版) - ソ連空軍パイロット
ギャラリー
- 救世主顕栄大聖堂(ムハールスクィー修道院(英語版))
- 受胎告知聖堂(ムハールスクィー修道院(英語版))
- 鐘塔(ムハールスクィー修道院(英語版))
- 学校(загальноосвітня школа №10)
- 創立千年記念碑
- 聖母誕生教会(Церква Різдва Пресвятої Богородиці)
- ルブヌィ駅
脚注
注釈
出典
- ^ Лубенська міська рада
- ^ Численность населения на 1 февраля 2013 года // Головне управління статистики у Полтавській області (2013).
- ^ a b c d e f g “Lubny” (英語). The Great Soviet Encyclopedia. (1979). https://encyclopedia2.thefreedictionary.com/lubny
- ^ Л. Є. Махновця (1989). О. В. Мишанич. ed. Літопис руський. Дніпро. p. 161-162. ISBN 5-308-00052-2. http://resource.history.org.ua/item/0006367 2019年12月24日閲覧。
- ^ Лепявко С.А.. “СОЛОНИЦЬКИЙ БІЙ 1596”. Енциклопедія історії України. 2019年12月24日閲覧。
- ^ Лубны // Большая Советская Энциклопедия. / редколл., гл. ред. Б. А. Введенский. 2-е изд. том 25. М., Государственное научное издательство «Большая Советская энциклопедия», 1954. стр.439
- ^ № 6800 «Красная Лубенщина» («Червона Лубенщина») // Газеты СССР 1917—1960. Библиографический справочник. том 3. М., «Книга», 1978. стр.224
- ^ Газеты дореволюционной России 1703—1917. Каталог. СПб., 2007. стр.91
- ^ Концентрационные лагеря, образованные на территории СССР немецко-фашистскими захватчиками в 1941-1944 гг. Список составлен по материалам Чрезвычайной Государственной Комиссии (ЧГК) // газета "Судьба", июнь 1995. стр.3-6
- ^ United States Holocaust Museum, Einsatzgruppen (Mobile Killing Units) Archived 2009-05-07 at the Wayback Machine.
- ^ “Lubny, Ukraine”. Weatherbase. 2019年12月22日閲覧。