ペドロ・デ・バルディビア
スペインによる アメリカ大陸の植民地化 |
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ペドロ・デ・バルディビア(Pedro de Valdivia、1500年 - 1554年1月1日)は、スペイン王国の探検家、コンキスタドール、チリの征服者。イタリア戦役のベテランでフランシスコ・ピサロの腹心だった。エストレマドゥーラ地方の現在のバダホス県ビジャヌエバ・デ・ラ・セレーナ出身。
1540年、少数の兵を率いてペルー南の土地を占拠する為に新たな遠征を敢行すべくクスコを出発した。アタカマ砂漠などを乗り越え陸路で1年進行した後に1541年2月12日、マポチョ川辺、現在のサンタ・ルシアの丘付近に現在のチリの首都であるサンティアゴ市を建設した。その7ヵ月後、原住民インディオにより襲撃を受けた。それでも征服を目指す遠征を南へと続け、その影響はビオビオ川の先(南緯37度)にまで及んだ。1547年に援軍を求めてペルーへ帰還。王党軍に加わりゴンサロの反乱鎮圧に功績を上げたあとチリ総督に任ぜられた。しかし、マプーチェ族の指導者ラウタロとの戦闘で敗走中に捕らえられ、拷問の上処刑された。
チリで流通している500ペソ紙幣に肖像が使用されているほか、小惑星(2741) Valdiviaはバルディビアの名前にちなんで命名された[1]。
ウィキメディア・コモンズには、ペドロ・デ・バルディビアに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
脚注
- ^ “(2741) Valdivia = 1935 CM = 1952 DJ2 = 1953 QS = 1969 EB1 = 1969 FC = 1973 FX1 = 1975 XG = 1979 UA1 = 1990 FO3”. MPC. 2021年9月30日閲覧。