フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)
フリードリヒ・フランツ1世 Friedrich Franz I. | |
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メクレンブルク=シュヴェリーン大公 | |
フリードリヒ・フランツ1世の肖像画、ルドルフ・ズールラント(英語版)作。 | |
在位 | 1815年 - 1837年 |
別号 | メクレンブルク=シュヴェリーン公 |
在位 | 1785年 - 1815年 |
出生 | (1756-12-10) 1756年12月10日 神聖ローマ帝国 メクレンブルク=シュヴェリーン公領、シュヴェリーン |
死去 | (1837-02-01) 1837年2月1日(80歳没) メクレンブルク=シュヴェリーン大公国、ルートヴィヒスルスト(英語版) |
配偶者 | ルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク(英語版) |
子女 | 一覧参照 |
家名 | メクレンブルク=シュヴェリーン家 |
父親 | ルートヴィヒ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン |
母親 | シャルロッテ・ゾフィー・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(英語版) |
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フリードリヒ・フランツ1世(ドイツ語: Friedrich Franz I.、1756年12月10日 - 1837年2月1日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン公(在位:1785年 - 1815年)、後にメクレンブルク=シュヴェリーン大公(在位:1815年 - 1837年)[1]。
生涯
ルートヴィヒ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーンとシャルロッテ・ゾフィー・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(英語版)の息子として、シュヴェリーンで生まれた。1785年、伯父のフリードリヒ2世の死に伴いメクレンブルク=シュヴェリーン公に即位した[2]。
ナポレオン戦争の後、ウィーン会議での決定により公から大公に昇格した[3]。いとこにあたるメクレンブルク=シュトレーリッツ大公とともに、当時のドイツ諸国の君主のうち最も反動的であると知られた。1837年に死去、孫のパウル・フリードリヒが大公に即位した。
家族
1775年6月1日、フリードリヒ・フランツ1世はゴータでルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク(英語版)と結婚した[2]。2人は5男3女をもうけた。
- 娘(1776年5月7日、夭折) - シュヴェリーンのシェルフ教会(英語版)に埋葬された[4]
- 息子(1777年5月11日、夭折) - シュヴェリーンのシェルフ教会(英語版)に埋葬された[4]
- フリードリヒ・ルートヴィヒ(1778年6月13日 - 1819年11月29日) - ロシア皇帝パーヴェル1世の娘エレナ・パヴロヴナと結婚、パウル・フリードリヒ(後に大公に即位)などを産んだ。パウル・フリードリヒの長男はフリードリヒ・フランツ2世で、フリードリヒ・フランツ2世の末男ハインリヒ(オランダ語名ヘンドリック)がオランダ女王ウィルヘルミナの王配となったため、フリードリヒ・ルードヴィヒは現オランダ王家の先祖にあたる。
- ルイーゼ・シャルロッテ(1779年11月19日 - 1801年1月4日) - ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公エミール・レオポルト・アウグストと結婚、娘のルイーゼはヴィクトリア女王の王配アルバートの母となった。そのため、ルイーゼ・シャルロッテは現イギリス王家の先祖にあたる。
- グスタフ・ヴィルヘルム(1781年1月31日 - 1851年1月10日)
- カール(1782年7月2日 - 1833年5月22日)
- シャルロッテ・フリーデリケ(1784年12月4日 - 1840年7月13日) - デンマーク王クリスチャン8世と結婚、フレデリク7世を産んだ
- アドルフ(1785年12月18日 - 1821年5月8日)
脚注
ウィキメディア・コモンズには、フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)に関連するカテゴリがあります。
フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公) メクレンブルク家分家 | ||
爵位・家督 | ||
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先代 フリードリヒ2世 | メクレンブルク=シュヴェリーン公 1785年 - 1815年 | 大公に昇格 |
新設 公から昇格 | メクレンブルク=シュヴェリーン大公 1815年 - 1837年 | 次代 パウル・フリードリヒ |