ナーシル・ジャング
ナーシル・ジャング Nasir Jung | |
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第2代ニザーム | |
ナーシル・ジャング | |
在位 | 1748年 - 1750年 |
別号 | フマーユーン・ジャー ニザーム・ウッダウラ |
全名 | アフマド・アリー・ハーン |
出生 | 1712年2月16日 |
死去 | 1750年12月16日 ジンジー |
王朝 | ニザーム王国 |
父親 | カマルッディーン・ハーン |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
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ナーシル・ジャング(ウルドゥー語: نصیرجنگ, Nasir Jang, 1712年2月16日 - 1750年12月16日)は、インドのデカン地方、ニザーム王国(ハイダラーバード王国)の第2代君主(ニザーム、在位:1748年 - 1750年)。
生涯
1748年、父であるニザーム王国始祖アーサフ・ジャーがブルハーンプルで没した時、その長男ガーズィー・ウッディーン・ハーンは、父の代理としてムガル帝国の首都デリーの宮廷に出仕していた[1]。
この機をついて、次男のナーシル・ジャングは首都アウランガーバードを抑え、ニザーム王国軍と宮廷の貴族達の支持を取り付ける事に成功した。彼は国庫を奪取してニザームを宣し、1749年2月4日にムガル帝国にもその継承を認められた[2]。
しかし、その甥である ムザッファル・ジャングはこれに強硬に反対し、チャンダー・サーヒブやフランスのデュプレクスと結んで、ナーシル・ジャングに対抗しようとし、1748年8月に第二次カーナティック戦争を引き起こした[3][4]。
そのため、ナーシル・ジャングはチャンダー・サーヒブと対立していたイギリス側のムハンマド・アリー・ハーンと同盟し、戦争に参加するため、1750年1月に南インドのタミル地方に出陣した[5]。
同年12月6日、ナーシル・ジャングはカダパのナワーブであるヒンマト・ハーンにジンジー付近で殺害された[2][3][5]。
脚注
参考文献
- 辛島昇『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。
- ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。
関連項目
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