ジョルジュ・スコット

ジョルジュ・スコット
Georges Scott
アトリエにて(1911年)
本名 Georges Bertin Scott de Pagnolle
誕生日 (1873-06-10) 1873年6月10日
出生地 フランスの旗 フランス共和国パリ6区
死没年 1943年1月10日(1943-01-10)(69歳没)
死没地 フランスの旗 フランス共和国パリ14区
モンパルナス墓地
国籍 フランスの旗 フランス
運動・動向 戦争画戦記
芸術分野 絵画イラスト
代表作 『コンスタンティノス1世騎馬像』
『アルフォンソ13世騎馬像』
F・フォッシュ騎馬像』
受賞 レジオンドヌール勲章
シュヴァリエ (1912年2月13日)
オフィシエ (1914年1月21日)
クロワ・ド・ゲール勲章 (1917年)
後援者 フランス陸軍
ブルガリア陸軍
ギリシャ陸軍
影響を受けた
芸術家
アンリ・スコット[1]
エドゥアール・デタイユ
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ベルタン (bertin) のサイン
(1912年)

ジョルジュ・スコット (Georges Scott1873年6月10日 - 1943年1月10日) はフランス画家イラストレーター従軍記者

彼は第一次世界大戦時の戦争画でよく知られており、その作品は47年間にわたって新聞の「イリュストラシオン」に掲載された。彼は作品の署名に出生名のベルタン(bertin)も使った。

経歴

彼は出生名をジョルジュ・ベルタン・スコット・ド・プラニョールといい、1873年にパリ6区で生まれた。父親のアンリ・ルイ・スコット・ド・プラニョール(1849-1884)も画家であり、主にイラストレーターとして、アンリ・スコット (Henry Scott) 名義で『ル・モンド・イリュストレ』などの定期刊行物を中心に活動した(→アンリ・スコットの作品)。妻は出生名をソフィー・エロイーズ・ブリエール(Sophie Héloïse Brière)といい、のちに歌手で女優のネリー・マルティル(フランス語版)として有名になった。1909年7月12日、ジョルジュは看護師として従軍していたネリーとパリ9区で結婚した[2][3]

彼はパリのエコール・アルザシエンヌ(フランス語版)で学び、その頃から多くの絵を描いた。

わたしはいつも絵を描いていました[...]。父は画家でイラストレーターでした。わたしはアトリエで生まれました[4]
ジョルジュ・スコット

1884年に父親が死去すると、パリ国立高等美術学校で学び、その後エドゥアール・デタイユに師事し、1897年にはフランス芸術家協会の会員となった[5]。父親と同じように「ル・モンド・イリュストレ」「ココリコ (フランスの雑誌)(フランス語版)」、「イリュストラシオン」などの様々な定期刊行物で働き、1892年3月19日、19歳で最初の素描『アンデルリュ(フランス語版)の大惨事』を発表した。その後、彼は雑誌「ジュセトウ(フランス語版)」の表紙画を描いた。

1911年、陸軍大臣アドルフ・メッシミ(フランス語版)はスコットとデタイユにフランス陸軍の制服の改良を依頼した。けっきょく彼らの案は採用されなかったものの、その一部は1912年3月刊行の「イリュストラシオン」や1912年4月28日の「Le Sport universel illustré」などの新聞に掲載された。1912年には同紙の従軍記者として、ブルガリア陸軍と共に第一次バルカン戦争を取材した。1913年7月、第二次バルカン戦争のためにトラキアに戻り、ギリシャ陸軍と共にギリシャ国王コンスタンティノス1世に謁見した。翌年の1913年9月にギリシャ国王はパリを訪問する際スコットのアトリエを訪れ、翌1914年春にアテネで完成することとなる、制作中だった自身の騎馬肖像画を見た[6]。なお、この絵は現在アテネ大統領官邸(フランス語版)の正面玄関ホールに飾られている。

1914年の夏、スコットはジェマル・パシャの肖像画を描くためにコンスタンティノープルにいた。ふたたび動員令が発せられると、彼はパリに戻り、従軍記者として派遣先のアルザスとの国境で最初に描いた絵『通らない!』は、1914年8月8日発行のイリュストラシオンに掲載された。1916年からは従軍画家として、彼は前線を表す多数のプレート、ポストカードのイラスト、志願兵募集ポスター、兵営の劇場スケッチを制作し、クロワ・ド・ゲール勲章(フランス語版)を受勲。戦間期にはイギリス王ジョージ5世の肖像画や、1926年にムッソリーニの騎馬肖像画を描いた。その後、スペイン内戦第二次世界大戦の開戦を取材し、同紙の1939年12月30日号に掲載された彼の最後の絵を描いた。 1912年にレジオンドヌール勲章の騎士に任命され、1928年には同章の将校に昇進した[7]。 彼は1943年にパリで死去し[8]モンパルナス墓地の第26区に埋葬された。

ギャラリー

  • 父親のアンリ (E・バヤール(子)画)
    父親のアンリ
    (E・バヤール(子)画)
  • 妻ネリーの舞台写真 (1908年)
    妻ネリーの舞台写真
    (1908年)
  • 『スタッド・フランセとラシン92の試合』 (1906年)
    スタッド・フランセラシン92の試合』
    (1906年)
  • スコット考案の軍服 (1912年)
    スコット考案の軍服
    (1912年)
  • 『通らない!』 (1914年)
    『通らない!』
    (1914年)
  • 『アルザスにて!』 (1914年)
    『アルザスにて!』
    (1914年)
  • 戦時公債募集ポスター (1917年)
    戦時公債募集ポスター
    (1917年)
  • 『コンスタンティノス1世』 (1914年)
    『コンスタンティノス1世』
    (1914年)
  • 『アルフォンソ13世』 (1923年)
    『アルフォンソ13世』
    (1923年)
  • 『F・フォッシュ』 (1930年)
    F・フォッシュ
    (1930年)

脚注

  1. ^ WIKIDATA Q61692855
  2. ^ Barrie, Robert (1917) (英語). My Log. Franklin Press. pp. 116–118. https://books.google.com/books?id=vkFtAAAAMAAJ&q=Nelly+Martyl&pg=PA115-IA1 
  3. ^ Acte de naissance, Archives de Paris.
  4. ^ “Georges Scott, peintre de la Grande Guerre”. 2021年10月9日閲覧。.
  5. ^ Georges Scott, http://www.lillustration.com/S_a148.html .
  6. ^ Georges Scott, peintre de la Grande Guerre, (2014), http://www.st-cyr.terre.defense.gouv.fr/index.php/Les-ecoles-de-Saint-Cyr-Coetquidan/Actualites/Georges-Scott-peintre-de-la-Grande-Guerre .
  7. ^ Archives nationales, dossier de Légion d'honneur, consultable sur la base Leonore.
  8. ^ Acte de décès (avec date et lieu de naissance) à Paris 14e, n° 180, vue 18/31.

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ジョルジュ・スコットに関連するカテゴリがあります。
  • ジョルジュ・スコットの経歴(イリュストラシオンより)
  • ジョルジュ・スコット作成のポストカード目録
  • エレーヌ・ルーヌ, ギュスターヴ・シリイ, ルネ・ピュオー他 (1913). M.イムハウス, R.シャペロー. ed. 『バルカン半島 1912-1913』. パリ , 参照 @Gallica.
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